民主主義的アナーキスト「F」氏のブログです。サブカルチャーから社会問題までおっとり刀で書いていこうと思います。


by Mr_F
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裏切り者

日米密約に関する報告書詳報 

 日米密約に関する有識者委員会報告書の詳報は次の通り。

 【密約の定義】

 かつての秘密協定には公表部分と秘密部分があった。秘密部分は国民に知らされておらず、かつ公表されている合意や了解とは異なる重要な内容を持つものである。これは「狭義の密約」と言うことができる。当然、合意内容を記した文書が存在する。

 また明確な文書による合意でなく、暗黙の合意や了解があるが、やはり公表されている合意などと異なる重要な内容を持つものがある。これは「広義の密約」と言うことができる。報告書は狭義だけでなく広義の密約も対象とする。
【核持ち込み】

 日米は1960年の日米安全保障条約改定時に、事前協議の対象について「米軍装備における重要な変更」とした交換公文を交わした。「艦船」「寄港」「核兵器」との文言は含んでいないが、日本政府は核搭載艦船の一時寄港(核持ち込み)に関し「事前協議の対象になる」と答弁した。ここに問題の核心がある。

 交換公文に関する了解事項は「討議の記録」(秘密議事録)の名で文書化され、60年1月6日、藤山愛一郎外相とマッカーサー駐日米大使がイニシャルで署名。その存在は間接的に知られていたが、今回コピーと考えられる文書が見つかった。

 文書は、交換公文が指摘する事前協議の対象について「核兵器および中・長距離ミサイルの日本国内への持ち込み並びにそれらの兵器のための基地建設を意味すると理解される」としている。

 問題は、この「持ち込み」に核艦船寄港が含まれるかどうかだ。ライシャワー駐日米大使は63年4月、大平正芳外相に「持ち込みに当たらない」と伝えたが、日米が条約改定交渉の際、そうした解釈で合意したわけではない。

 日本側の交渉者たちは米国側の考え方に気付きつつ、事前協議の対象にしてほしいと正式に要求することはなく、米国側もこの問題を正面から持ち出さなかった。それゆえ日米間で議論が詰められなかったという構図が浮かび上がってくる。

 米政府は艦船、航空機などに積む核兵器について肯定も否定もしない「NCND」政策をとっていた。この政策を変えずに核艦船の寄港を事前協議の対象とすればどの艦船も寄港できなくなったはずだ。事前協議が必要ないという了解を取り付けようとしても、日本は強い反核世論から受け入れるのが難しく、安保条約改定交渉が挫折する恐れがあった。

 他方、日本側は安保改定が目指す「相互性」は米軍の日本防衛協力と日本の基地提供の交換に基づくものなので、基地使用を大きく制限することは難しい。事前協議は使用を制限する仕組みで、核武装部隊の日本駐留以外のものまで協議の対象にするのは無理があると判断したのではないか。

 以上の点から、問題を正面から議論するのは難しいということに双方の認識の一致があったと思われる。

 日米は互いに「深追いせず」、問題をあいまいなままにしておく。その結果、核艦船は事前協議なしに日本に寄港するかもしれず、また日本政府は表向き否定するかもしれないが、互いに抗議しない。そういう暗黙の合意が安保改定時にできあがりつつあったと見てよいだろう。

 その暗黙の合意が固まるのは、63年4月の「大平・ライシャワー会談」以降だ。「核弾頭を持った船は日本に寄港してはもらわない」とした63年3月の池田勇人首相の発言は米政府に危機感を抱かせた。ライシャワー駐日米大使は大平正芳外相に「寄港は事前協議の対象外」との米側の考え方を伝えた。翌64年12月には佐藤栄作首相にもひそかに伝えた。

 しかし、60年代の戦術核兵器の発展、73年の横須賀の空母ミッドウェー「母港化」といった軍事環境の変化により事前協議と核艦船の取り扱いの問題がスポットライトを浴びる機会が増えた。そこに67年からは佐藤栄作首相が表明した「非核三原則」も加わり、日本政府は(公にならないよう協力することに意思の一致があった)「暗黙の合意」に頼るしかなくなっていった。

 68年1月、牛場信彦外務事務次官、東郷文彦北米局長とジョンソン駐日大使が会談し、米側の解釈を確認した。

 「外的情勢」か「核問題の認識」に大きな変化がなければ、いまのままでいくしかない。日本政府の対応は以後、「暗黙の維持」で固まった。確認できるところでは佐藤政権から宇野政権まで首相や外相に説明したとの記述がある。

 74年9月、ラロック退役米海軍少将が核艦船寄港を証言。この後、日本政府は核艦船寄港を事前協議の対象から外すことを公に認める可能性を検討。大平蔵相が積極的で「(核持ち込みに)日本の領海(領空)通過および一時寄港は含まれないことを確定」することに最重点を置き、田中角栄首相と諮り、11月のフォード米大統領来日後、臨時国会で決着させる方針を立てた。だが、12月に田中内閣が総辞職し、後を継いだ三木内閣は「従来通りの線で対処」する旨を米政府に連絡し、密約は今日まで残った。

 この「密約」問題に関する政府の説明はうそを含む不正直な説明に終始したが、その責任と反省は、冷戦下における核抑止戦略の実態と日本国民の反核感情との間を調整することが容易でなかったという事情を考慮に入れるべきだろう。

 「「核持ち込み」問題の処理で外務省の調査チームが言う日米間の認識の不一致があったというわけではない。

 【朝鮮半島有事】

 日米両国は60年の安保改定時に、在日米軍基地から出撃する米軍の戦闘作戦行動を事前協議対象とすることで合意した。それと同時に、非公開の「朝鮮議事録」により、朝鮮半島有事の際、事前協議なしに在日米軍が出撃できると日米が合意していたことを調査で確認した。

 藤山外相とマッカーサー駐日米大使の会談内容を記録した議事録のコピーとみられる60年1月6日付の2文書と、草案の5文書が見つかった。

 議事録では、藤山氏が岸信介首相の許可を得た上で「緊急時の例外措置として、米軍によって日本の施設・区域を使用され得る」と表明したが、岸首相は60年4月に「米軍が日本の基地を使用し、作戦行動をする場合、すべて事前協議の対象となる」と国会答弁した。しかし、議事録は事前協議の免除を主張してきた米側の要望を秘密裏に認めた内容で、日本側が密約の性格を帯びた文書であるとの認識を持っていたのは確実だ。

 日本側は69年の沖縄返還交渉期に議事録の失効を求め、米国側は懸念を示した。日本側は対立を表面化させないため、佐藤首相が演説で「事前協議に前向き、速やかに態度を決定する」と一方的に表明するにとどめ、米政府はこれを評価した。

 議事録の失効をめぐり日米間で明確な決着がつけられることはなかった。だが、こうした首相の態度表明の後に事前協議なしの基地使用は考えにくく、議事録は事実上失効したとみてよい。

 北朝鮮の核開発をめぐる94年の朝鮮半島危機の際、米国は佐藤演説に沿って日米が実際に事前協議しようとしたとの報道があり、97年の日米防衛協力新指針、99年の周辺事態法などが成立。こうした日米同盟の緊密化に伴い、議事録は事実上、過去のものになった。

 【沖縄核再持ち込み】

 沖縄返還を決めた69年11月の日米首脳会談で、佐藤首相とニクソン大統領に有事の沖縄への核再持ち込みを認める秘密合意があったとされる。09年12月に佐藤家から両首脳が署名した合意議事録が発見され、存在自体も実証的に裏付けられる可能性が出てきた。だが、調査では議事録や関連資料は外務省内で発見されなかった。外務省は議事録作成に関与していなかったとみられる。

 69年11月の佐藤・ニクソン共同声明では第8項に「事前協議制度に関する米政府の立場を害することなく」と盛り込まれた。米側が有事の核持ち込みに「秘密の保証」を要請、緊急時には(非核三原則にかかわらず)日本政府がただちに協議に応じることを共同声明で示そうとしたものだ。

 合意議事録は、共同声明を大きく超える(日本の)負担を約束したとは言えず、必ずしも密約とは言えない。秘密合意は、佐藤内閣の後継内閣を拘束していない。佐藤首相自身が交渉開始前から「秘密了解」に慎重で議事録を私蔵し、引き継いだ節がないからだ。

 議事録の意義は根拠となる資料が不足している。米側は、政府内の合意取り付けに必要だと言っていたし、予定通りに佐藤・ニクソン会談が実現できなかったかもしれない。

 佐藤首相の密使として、キッシンジャー大統領補佐官とともに議事録作成に携わった若泉敬氏の役割は否定できない。ニクソン氏の意向が佐藤氏に届いた意義は大きい。

 【沖縄「肩代わり」】

 71年6月に調印した沖縄返還協定で、米政府は軍用地の原状回復補償費に関し「自発的に支払う」とした。だが米側はこれ以上の財政支出をしないと米議会に説明していたため、交渉過程では議会の説得が困難だと主張。そのため、日本側が「肩代わり」することになったとされる。

 交渉の際、米側は「自発的支払いの財源(400万ドル)は日本側が負担とする」とした愛知揆一外相から駐日米大使への「不公表書簡」を要求。米側は「議会との関係で公開せざる得ない場合も皆無ではない」としたのに対し、日本政府は難色を示した。結局「かかる文書の必要なしとの結論に達した」と、書簡の発出は見合わせた。

 返還協定調印直前の71年6月12日、吉野文六外務省アメリカ局長は書簡に代わるものとして非公表の「議論の要約」を作成し、イニシャルで署名。「(返還協定に基づいて支払う)3億2千万ドルのうち400万ドルが留保されることを日本が予期している」とした。

 「議論の要約」は日本側が400万ドルを支払うと約束したのではなく、米側の取る行動を日本側が了解するという文言で確認したにすぎない。事務当局レベルのもので、米側に渡されていたが、作成と署名を愛知外相ら政府首脳が認識していたか疑わしい。日米両政府を拘束する内容ではなく「狭義の密約」には当たらない。

 しかし、日米間には補償費の財源を日本側が負担することに加え、財源400万ドルを含む計2千万ドルを当初の日本側支払い総額の3億ドルに追加するという了解・合意があったことを確認。了解・合意は非公表扱いで明確に文書化されていないが、両政府の財政処理を制約するもので「広義の密約」に該当する。

 「本土並み」や早期返還の実現という要請の中で不透明な処理を余儀なくされた。調査がこうした清濁併せ持った返還交渉の苦闘の歴史を検証し、正確に伝えていく努力の一歩となれば幸いだ。

 【文書管理と公開】

 「討議の記録」「朝鮮議事録」などは永久保存すべきだったが、主管課は文書課(現総務課)に引き継がず、コピー作成の上で廃棄したか、まったく手元に置かずに廃棄した可能性がある。

 討議の記録に関する対米交渉は、当然あるべき議事録、電報が不自然に欠落し、交渉経緯を示す文書も存在せず、十分に復元できなかった。遺憾だ。規定に照らせば、文書を作成しても文書課が引き継がない限り保存されない。

 戦前の日本、対日交渉記録を詳細に残している米国と比べても「記録を作成し保存する」との意識に欠けていた。当面は公表がはばかられる内容でも、将来へ公的記録を残すことの重要性を指摘したい。

 文書公開に遅れが目立つ。30年を経過した文書のうち2万件の審査が終了していない。30年を経た文書の原則公開を徹底し、拡充する。

 公開段階の記録検索簿の作成は、専門家の活用が有効。公開の対象外となった文書に関しては廃棄の是非を検討する第三者の視点が必要だ。開示をめぐり、政務レベルの責任ある判断を求める。

 60年の安保条約、71年の沖縄返還協定、72年の日米繊維協定と日中共同声明、78年の日中平和友好条約、日ソ国交回復、日韓国交正常化関連については速やかな公開を望む。

共同通信



重要な書類は破棄され、佐藤栄作首相にノーベル平和賞を与えた非核三原則は守られず、自民党が隠し続けてきた核密約は部分的ではあるが、遂に白日の下に晒された。

冷戦は終わり、朝鮮半島情勢も北朝鮮の弱体化でアメリカは核戦略を大幅に見直し、艦船や航空機装備の戦術核兵器は一線から退いた。
その時点で日本国に核兵器は持ち込まれなくなったが、それまでは持ち込まれていた事は間違いない。

自民党は国民には核持ち込みはないと言い続けながら、その裏側ではアメリカの言いなり。日本国民よりもアメリカの都合を優先した。


総選挙前、自民党は民主党をどこの国の政党かと中傷を繰り返したが、自民党こそどこの国の政党だったのか?
アメリカ合衆国ジャパン州の地域政党であったに違いない。

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# by Mr_F | 2010-03-10 03:55 | ニュース
迫力の横っ飛び 新女王ヨナ、思わずガッツポーズ

 フリーを終えた韓国の金妍児(キム・ヨナ)のクールな表情が崩れた。両手を上げて、ガッツポーズ。150.06点。合計も228.56点で、ともに自身が持つ世界歴代最高得点を更新し、金メダルに輝いた。

 冒頭から完全な2連続3回転ジャンプを決めた。スピードのある踏み切りから、横っ飛び。着氷を余裕を持って決めた。後半の2回転半―3回転は、二つ目のジャンプが一つ目よりも高く、迫力があった。着実に得点を積み上げた。

 アメリカ人作曲家ガーシュインの「ピアノ協奏曲ヘ調」にのって、きれいな滑りを見せる。アップテンポのSPとは正反対の古典的な世界を優雅に表現した。

 SPで首位。4.72点差で、同じ19歳のライバル、浅田がいた。ジュニア時代は浅田に負けることが多かったが、トリノ五輪以降のシーズンの直接対決で、浅田を5勝3敗と上回ってきた。それでも、ライバルとの一騎打ちになった大舞台は、得点を待つキス・アンド・クライで、心なしか緊張した表情を見せた。この種目初の金メダルを願う母国の期待を一身に背負った。その重圧をはねのけた。

 最近の五輪は、優勝候補と言われた選手がことごとく勝てなかった。2005年世界女王として翌年のトリノ五輪に挑んだイリーナ・スルツカヤ(ロシア)は3位、世界選手権5度優勝のミシェル・クワン(米)は1998年長野五輪で銀、02年ソルトレーク五輪は銅。そのジンクスでさえ、金妍児には当てはまらなかった。

 優勝候補が期待通りの力を発揮し、五輪の歴史に残る女王が誕生した。

朝日新聞



キム・ヨナと浅田真央、まるで漫画でしょ。

お互いに同年齢で、しかも最高レベルの技術を競い合えるなんて、こんな上手い話があっていいのだろうか?
世界で文字通り、こうやって頂点を奪い合えるなんて選手としてこれよりも恵まれた環境なんてないだろ。

年齢が違うとか、あるいは階級が違うとか、なかなかライバル関係って言うのは築けないものですよ。


例えばドカベンで言うなら、明訓高校と白新高校は同じ神奈川県下で最強同士にもかかわらず甲子園では競い合えなかった訳ですよ。

またやYAWARA!で言うなら、猪熊柔は最強ゆえに柔道を楽しめなかった訳ですよ。

美味しんぼで言うなら、山岡士郎の前には海原雄山がいるから、究極のメニューは究極たる訳ですよ。

北斗の拳で言うなら、ケンシロウが強くなれたのは並み居る強敵(とも)たちがいたからな訳ですよ。




目の前に自分と同じ、あるいは上回る能力を持つ相手がいるって言う事は、それだけで素晴らしいのです。
しかもそれが世界最強ともなれば、もう漫画の世界でもなかなかありえない事。



キム・ヨナと浅田真央、次のオリンピックも勿論あるんだろうけど、18才というピークで世界で、オリンピックで競い合えたって言うのは、多分それだけで奇跡。
この二人の戦いに、下らない邪推や、あるいは劣等感でもって何か言うなんて下衆の勘ぐりそのもので恥ずかしい。


我々凡人は、奇跡を目の前に出来た事に感謝しなきゃいけません。





後、ロシェットの銅メダルもね。

金メダル以外は価値がないとか言ってる、弟の七光りだけで都知事やってる三流小説家もどきは恥を知れよ。


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# by Mr_F | 2010-02-26 20:45 | スポーツ
「マイマイ新子と千年の魔法」を観てきました。
http://www.mai-mai.jp/index.html








「マイマイ新子と千年の魔法」は出来も良かったし、内容も充分楽しめました。


この映画が殆ど誰にも注目されず、一部の有志の計らいで細々と公開するしかない。それがまさに現実なのかもしれない。

復活編とか言うどうしようもない駄作アニメ映画が全国200館で同時上映されて、「マイマイ新子と千年の魔法」が誰にも知られず公開を終える、日本と言う国の「貧しさ」。
お金があるかないかという貧しさではなく、社会文化としての貧しさが端的に表されている気がする。


経済的な豊かさしか追い求めず、本質的な豊かさを見失ってさ迷う。

金八先生の「人と言う字は」ではないけれど、人間は一人じゃ生きていけない。誰かに助けられたり助けたり、そうやって初めて生きていける。

豊かさや幸せはそうやって初めて、与えられる物だ。




一つの食べ物しかなければそれを奪い合うのではなく、分け合う。そんな簡単な事を誰もが忘れている。

忘れていた事を思い出す、そんな映画でした。

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# by Mr_F | 2010-02-25 19:53 | サブカル
俳優の藤田まことさん死去 「必殺」シリーズなど人気

 「てなもんや三度笠」のあんかけの時次郎から「必殺」シリーズの中村主水(もんど)まで、幅広い芸域と深みのある演技で人気を集めた俳優の藤田まこと(ふじた・まこと、本名原田眞〈はらだ・まこと〉)さんが17日午前7時25分、大動脈からの出血で死去した。76歳だった。通夜と葬儀は親族のみで行う。喪主は長男原田知樹(ともき)さん。

 シリアスな中に人情とユーモアを秘めたキャラクターで愛された。特にテレビドラマでは、「はぐれ刑事純情派」の安浦刑事、「剣客商売」の秋山小兵衛といった当たり役に恵まれ、いずれも長寿の人気シリーズになった。

 1933年、東京生まれ。父は無声映画時代に活躍した俳優の藤間林太郎。19歳で地方回りの劇団に入り、歌手や声帯模写、司会などで笑いのスタイルを磨き、コメディアンとしてテレビの世界へ。初めて主演をつかんだコメディー時代劇「てなもんや三度笠」(62~68年)は、関西で60%、関東でも40%を超す高視聴率を上げ、その名を全国に知らしめた。

 その後しばらく不遇の時代が続いたが、「必殺仕置人」(73年)から登場する中村主水役で再びブレーク。コメディアンから演技派への変身を遂げた。家庭や奉行所ではうだつが上がらないが、裏で法で裁けぬ悪人を葬るすご腕という新しいヒーロー像を作り上げ代表作となった。

 映画、舞台でも活躍した。海軍に入隊した実兄を戦場で失うなど、戦争体験者として反戦、平和への願いは強く、映画「日本の青春」(68年、小林正樹監督)、「明日への遺言」(08年、小泉堯史監督)などで、その思いを演技にぶつけた。歌にも定評があり、舞台の「東海林太郎物語 歌こそ我がいのち」(84年)、ミュージカル「その男ゾルバ」(86年)などに主演した。02年紫綬褒章受章。

 08年4月に食道がんとわかり、手術。懸命のリハビリの末、同年秋から仕事に復帰した。しかし、09年秋、出演予定だったドラマ「JIN―仁―」(TBS系)を、慢性閉塞(へいそく)性肺疾患のため降板し、休養。今年1月から活動を再開したばかりだった。

朝日新聞


ついこの前、剣客商売のスペシャルが放送されたのに、まさか亡くなられるとは……。



事実上、最期の映画主演となった「明日への遺言」、地味だけどいい映画でしたよ。

藤田まことさんのお兄さんは戦死されてるんですよね。同映画のアピール番組でお兄さんが亡くなったと思われる沖縄の海へ献花しに行くのですが、寂しそうだったよなぁ。

お兄さんを殺した戦争指導者の多くは戦後ものうのうと生き続けて、財閥系企業の取締役になったり自民党の議員になったり、挙句の果てには総理大臣になったりして責任を放棄し続けてきたわけですが、「明日への遺言」はそういった戦争指導者たちへの藤田まことさんなりの痛烈な批判だった気がします。


法で裁けぬ悪党どもを斬って斬って斬りまくる中村主水。

一掛け二掛け三掛けて 
仕掛けて殺して日が暮れて

橋の欄干腰下ろし 
遥か向こうを眺むれば 
この世はつらーい事、ばかり

片手に線香 花を持ち 
おっさん おっさん何処行くの

私は必殺仕事人、中村主水と申します

「それで、今日はどこのどいつを殺ってくれと仰るんで?」




しかし、膝から崩れ落ちるような感じがする。藤田まことさんが亡くなったとは……。

ご冥福をお祈りします。

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# by Mr_F | 2010-02-19 04:45 | ニュース

小沢疑獄騒動、終わる

「国民の信取り戻すべく頑張る」 小沢幹事長、続投表明

 小沢一郎・民主党幹事長が4日、党本部で記者団とやり取りした内容は次の通り。

 【冒頭発言】

 「この度の私の政治団体に関連することで大変、国民のみなさま、また同志のみなさまにご迷惑とご心配をおかけしましたことを心からおわびを致します。さきほど、弁護人の方から、私につきましては不起訴という知らせを頂きました。公平、公正な検察当局の捜査の結果として受け止めております」

 「一方、私の事務所で会計を担当しておりました者が起訴ということになりましたことは、大変残念でございますし、これまた、国民のみなさんや同志のみなさんにおわびを申し上げたいと思います」

 「特に、石川(知裕衆院議員)については、国会議員でございますが、みなさまにご理解とご認識をして頂きたいことは、石川が、国会議員、衆院議員としての職責に関連してその責任を問われているわけではないということでございます。国会議員になる前の私の事務所におった時のことであるということ、それからまた、起訴の内容も、いわゆる収支報告書の形式的な点についての責任を問われていることであるということは、みなさんにもぜひ理解と認識をして頂きたいと思います」

 「いずれにしても、昨年の3月以来、大変世間をお騒がせし、国民のみなさんや同志のみなさんにご迷惑をおかけしたことを、重ねてこの機会におわび申し上げたいと思います」

 【質疑】

 ――議員になる前ということだが・・・。

 「いや、なる前っていうよりも、国会議員の職責に関連して職責を問われているわけではないと。はい」

 ――今は石川被告となったが、党としての処分はどう考えるのか。

 「これは今、あの、私自身がそれこそ、私自身の政治団体に関連しての問題でございました。そういう意味で、今日の時点では検察の公正な捜査の結果が出たという時点でございますので、そのことにつきましては、いずれ本人と連絡が取れるかどうか分かりませんが、今後考える問題だろうと思っています」

 ――以前の記者会見で、陸山会の代表としての監督責任を認めたが、道義的責任も含めて今はどう考えるか。

 「あのー、代表者ですから最終的責任は私にあるということは、その通りであろうと思います。それを否定するわけではありません。ただいま申し上げましたように、石川自身も弁護人を通じてコメントを出しているようでございますが、報道等でずっと言われてきたような不正なお金は一切もらっていないと、いうことを最後まで主張しておったと思いますし、今言ったようにいわゆる報告書の形式的なミスの責任を問われているわけでございますので、そういう意味におきましては、私はいずれにしても、中身の程度の差はあるとはいえ、代表者としてのこのように不始末をしたことにつきましては、責任を感じております」

――自らの進退についてはどう考えるか。

 「ですから、中身の問題がそういうことでありまして、私が今、代表から指名して頂いている幹事長の職責を返上しなければならないという風には考えておりません。いずれ、代表にお会いする機会があると思いますんで」

 ――一連の事件で民主党への信頼が損なわれたが、信頼回復にどう努めるのか。

 「昨年の時も同じでした。私は全国民のみなさんに可能な限り、色んな機会を通じて、お話をしていきたいと思いますし、特に去年もそうでしたが、3、4月という時期でありました。選挙の前でした。今度も7月の選挙ということでございます。私はその意味におきまして、与えられた職責、国会の予算を早く早期に成立させ、国民生活を安定させるという、国会の責任と、それから参院の選挙に国民の支持を得ると。過半数目指して最善を尽くすと。そういう自分の任務に一生懸命全力で努力をしながら、国民のみなさんの信を取り戻すべく頑張りたいと思います」

 ――党大会で検察との全面対決を宣言したが、この戦いに勝利したと考えるか。

 「勝利とか敗北とかという問題ではなくて、私は、以前からずっと申し上げてきた通り、あなた方の報道の中では水谷建設から不正なカネをもらって、土地購入の資金に充てたとか、あるいは他の会社からもゼネコンからも金をもらった、不正な金をもらったとか、いう報道が、ずっと続いたもんですから、私はそんなことは一切ない。こういうような言い方については断固、自分としては承服できないという意味で、それを強く主張して参ったということでございまして、検察当局が公平公正な捜査をやった結果だということは、それをそのまま受け止めていきたいと思っております」

朝日新聞



昨年の総選挙前から果てしなく続いた小沢疑獄騒動も、遂に完結。

凄まじい検察リークをマスコミはひたすら垂れ流し続け、その結果は不正な金のやり取りも発見されずに政治資金規正法違反という書類の記載ミスという微罪で元秘書を立件にとどまった。

西松建設や水谷建設から金の入った紙袋を受け取った云々の報道が繰り返されたが、まあ結局は全て検察が作ったシナリオだったという事。東京地検の作り話にひたすら振り回された約一年だった。

「世論を正す会」とか、まあ看板の後ろにはどうせ自民党がいたんだろうけど、まあこれが検察の正義という事か。


ちなみに東京地検には総選挙後に自民党が公金である官房機密費、二億五千万円を使い込んだ事を大阪の市民団体が告発しているのだが、これはやる気がないらしい。

国民の税金、二億五千万円を使い込んだ自民党は捜査をせずに無罪という事ですか。全く公正な捜査ですな。


検察も他にやることがあるだろうし、民主党にはもっとやってもらわなければならない事がたくさんある。
もう疑獄騒動は、いい加減にしろ。

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# by Mr_F | 2010-02-05 00:26 | ニュース